それなりの年数を生きていれば、ひととの縁が切れることはたくさんある。とはいえ、能動的に縁を「切る」ことは滅多にないのではないだろうか。「この人とは合わないなぁ」と連絡を返さなかったり、遅らせてるうちに縁が切れる。おそらく多くの人がそうだし、僕もだいたいそう。
今回は僕が意図的に縁を切った元親友の話をします。個人的なメモワールです。冗長なところが多いかもしれないけど、自分の記憶をゆっくり掘りつつ書きます。
「実は俺な、末期がんなんだ」
2012年の冬に遡る。当時僕は27歳で、イスラエル・ヨーロッパの長旅から帰国し、岡山の実家でぶらぶらしていた。
ある日、Facebook上で高校時代のK先輩が写真を投稿しているのを見かけた。髪も眉毛もなく痩せほそった姿。場所は病室。すぐにK先輩にメッセージを送ってみた。すると「ちょっと体調が悪くてなと」と返信がきた。ちょっと? タダゴトではない。
数日後、病院へ見舞いに行った。生で見るK先輩は写真以上に痩せ細っていた。もともと90キロもあり柔道の有段者だったのに、屈強な面影はなくなっていた。僕が世界中を旅行している間も何度かやりとりをしていた。「田中(高校時代の部活仲間)がドイツで仕事してるぞ」、「帰国したら会おうぜ」というような普通のやりとりを。
「なぜ病気のことを言ってくれなかったんですか?」と僕は訊いた。
「せっかく楽しく旅しているのに水を差すのが悪くてな。言いそびれたんだ」と先輩は言った。「実は俺な、末期がんなんだ」
2001年、K先輩との出会いと最初の別れ
先輩と僕は同じ高校に通っていたが、学年は3つ離れている。先輩が卒業した年に僕は高校に入学した。なぜ交流があったかというと、僕らが通った高校には『補修科』という卒業した浪人生を1年間面倒を見る制度があったからだ。補習科は高校の敷地内にあり、浪人生は私服で通う。公式に認められた高校4年生のような存在だ。
僕はオーケストラ部に所属し、バイオリンを弾いていた。K先輩は補修科の授業が終わると、部室に来てはチェロを弾いた。チェロを弾きに学校に来ていたのではないかというほど。僕はK先輩からクラシック音楽についてあらゆることを学び、頻繁に岡山シンフォニーホールに一緒に行く仲になった。
翌年、僕は高校2年生になり、K先輩は補修科を卒業した。K先輩がふたたび大学受験に失敗したことは誰かから聞いたが、直接本人に訊かなかった。数ヶ月経って、ある日ふいに電話してみると「この電話は現在使われておりません」という自動音声が流れた。
僕の周りではこういうことはたびたび起こった。受験に失敗して浪人した学生が突然携帯電話を解約して音信不通ということもあった。進学校の学生にとって受験の失敗というのは人生で初めて味わう敗北でもあったし、他者への嫉妬を覚える人生の苦々しい1ページでもあった。
K先輩との再会、親友Wの話
それから2年が経った。僕は高校を卒業し一旦大学に入ったものの、色々思うところがありネットで日銭を稼ぎながらフラフラしていた。同時期、高校時代に一番仲良かった親友Wが地元岡山で浪人をしていた。Wは医学部には全く歯が立たず、あと数年は浪人しそうな気配があった。僕は彼の勉強を邪魔しない程度に連絡を取り、たまに息抜きに付き合う形でご飯に連れ出していた。
ある日、Wを迎えに行った際、代ゼミのトイレを借りた。背後から「ノブトウか?」と声をかけられた。振り返ると、K先輩だった。先輩は22歳になっていたのだが、なんとまだ浪人をしていた。それ以上に驚いたのが容姿の変化で、数年の間にまるまる太り、髪はスキンヘッド。別人になっていた。浪人のストレスで髪が抜け落ちてしまったということだが、陽気さは変わらなかった(外見は頑丈だったがメンタルは弱かったように思うし、その後の胃がんの原因もストレスかもしれない)。
先輩は進路について両親とぶつかり、搬入や引越しのアルバイトで食っていると言った。予備校には単科受講で週1,2日だけ通っているとのことだが、先輩が本気で大学を目指しているのかはわからなかった。受験にはふれずに再会を喜んだ。やはり我々の共通の話題はクラシック音楽だった。当時ピアニストのルース・スレンチェンスカが岡山で精力的に活動をしていて、彼女のコンサートに一緒に何度も足を運んでいた。
時を同じくして親友WとK先輩の付き合いが始まった。高校時代は交流がなかった二人だが同じ予備校に所属していることもあり、その後数年にわたり交流は続いた。Wは小遣いに困ると、K先輩の紹介で短期のアルバイトをこなした。K先輩のおかげでWは人との交流を保つことができ、過酷な受験勉強で病むことはなかった。
2009年春、Wは5年間の浪人生活を経て医学部に合格。長野に引っ越した。その頃の僕は仕事が忙しくなり、K先輩はフリーターが定着し、たまに連絡とるくらいになっていた。
先輩の闘病生活、姿を見せない友人
冒頭の2012年の話に戻る。
K先輩は胃に末期癌が見つかり、余命一年の宣告を受けた。僕が先輩に会いに行った頃は発覚から10ヶ月が経ち、もうすぐタイムリミットの一年を迎えるところだった。病室での先輩との会話の中でもちろん友人Wの話題も出た。K先輩は末期癌であること、自分の余命は1年を切っていることもWには話していた。
余談だが、K先輩は医者の友人や医大生の後輩に病状のレポートを送っていた。医者になる彼らに対してあらゆるデータや日報を送っていた。「この年で友達が末期癌になることなんてないだろう。サンプルと思って、なんでも聞いてくれ。データも全て出す」とも言っていた。なんて強い人なんだと驚いた。
病院からの帰り道、Wに電話をしてみた。Wとも疎遠になっていたので数年ぶりの会話だった。彼はK先輩の癌も余命ももちろん知っていた。しかし、驚いたことにWは一度もK先輩に会いに行っていなかった。帰省しても見舞いには行っていないらしい。Wは医学部に合格した後、浪人で失われた5年間を取り戻すように遊びまくっていた。あまりに遊びすぎてお金がなくなり、僕にお金を無心したこともあるほどだ。
1ヶ月が経ち、大学の春休みに入ってもWはやはり病院には現れなかった。前述の通り、僕は帰国後は仕事をしておらず時間があったので、週に2日、片道1時間以上かけて先輩に会いに行った。付き合いの終わりが見えていると妙に時間が惜しくなる。短期間に同じ人に何度も会ったのは人生で一度きりだ。いつでも会えそうな友人とは何年も会わなかったりするものだが。
さらに数週間が過ぎた。K先輩の死期はすぐそこに迫っていた。淡い期待もできないほど病魔はK先輩を衰弱させていった。投薬の量が増え、先輩の精神も不安定になることが多くなった。「早く病気を治して来年はヨーロッパに音楽を聴きに行きたいな」と穏やかな表情で言ったかと思えば、「抗がん剤には製薬会社の陰謀があるんだ」と怖い表情をし低い声で僕に訴えかけるということがあった。僕はずっと平静を保ち先輩の話に耳を傾けた。
さよならを言うことは
ある日、帰りの電車でレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』を読んでいて、「To say Goodbye is to die a little」というセリフが目に止まった。翻訳家の清水俊二氏は「さよならを言うことは少しのあいだ死ぬことだ」と訳し、村上春樹氏は「さよならを言うことは少し死ぬことだ」と訳した。厳密には村上春樹訳の方が正しい。でも、僕は別の解釈をしていた。先輩は少しずつ小さくなっていった。さよならを言うたびに先輩は少しずつ死んでいった。
ふと思い出して書いたツイート。
僕なら③「さよならを言うたびに少しずつ死んでいく」と訳す。英語ならEvery time we say 〜little by littleかな?
「さよならを言うたびに人間は抱えているものを少しずつ減らしていく」いずれはさよならを言うことがなくなる(完全な死を迎える)というニュアンスです。無理矢理だろうか笑— ノブトウ|教育Web×塾経営 (@nobutou) September 15, 2021
K先輩が亡くなることへの悲しみと比例するように、親友Wに対する怒りがこみ上げてきた。彼が医大生だから余計にそう思ったのかもしれない。高尚な理念を語っていたが、彼が人を救うために医者になりたいわけではないことは高校時代から気づいていた。医者の父親へ屈折した対抗心、進学校での虚栄心、早々に医学部へ受かった同級生への嫉妬。
もしかしたら先輩と確執があったのかもと思い、先輩との会話で探ってみたがそれもなさそうだった。その後も何度かWに電話したが、忙しいというわりに先輩の話から逸れるといかにも浮かれた大学生が伝わってきてゲンナリした。僕があまりにしつこく先輩に会いに来いと言うので面倒になったのだろう、メールの頻度も落ちていった。
K先輩は「あいつは忙しいんだろう。医学部は大変だろうから。春まで頑張らないとな。Wにまた会いたいな」とよく言っていた。
30代の死が持つ悲しさ
数週間後、先輩は亡くなった。2013年3月、30歳を迎えた1ヶ月後のことだった。僕が最後に病院に行ったのは実は亡くなった翌日だった。いつもは事前に先輩にメールをして会いに行っていたのだが、その日は返信がなく、まさかと思って病院に行くと先輩の病室は空になっていた。まるでドラマのワンシーンのように。
ドラマと違うのは看護師さんに聞いても何も教えてくれなかったことだ。この日どういうことを思いながら帰路についたか全く覚えていない。翌日、K先輩のお兄さんから先輩の死を知らされることになった。
「やっと面倒な20代を終えたのに」、僕の頭に最初に浮かんだことだ。10代、20代でも身近な人の死を何度か経験した。僕自身は、20代で訪れる衝動的な自殺、無謀な行為による死というのは容認していたように思う。仕方ない、あるいは彼らはそういう運命だったのだと。僕自身もハタチ前後は精神的にしんどい時期があった。お金への執着、満たせない欲望、日常への飽き。さらに日々の楽しみが変わっていくこと、あるいは自ら「楽しさ」をアップデートしていかなければいけないことへのしんどさ。
先輩は僕以上に多感で、精神的にも辛い時期が多かったはずだ。それだけに「ここまで来たのに。しんどい時期を乗り越えたのに。なぜ今」という気持ちでいっぱいだった。
葬式は家族葬と聞いていたので、通夜へ行った。お母さんに話を聞くと、安らかな最後だったと聞く。僕の中では覚悟はできていたので、落ち着いた気持ちで先輩の亡骸に別れを告げた。
ひとの死に浸る自分を演出する人たち
帰り道にWに電話をして、K先輩が亡くなったことを伝えた。
Wはわけ知り顔で「わかっていても辛いことってあるよな」と言った。自分が医学部に受かったのは先輩のおかげだとも言った。早く医者になって先輩のように病気で苦しむ人を救いたいとも言った。そして最後に「俺は悲しいよ。本当に惜しい人を亡くしてしまった」と付け加えた。その瞬間、潮が引いていくように、僕の中でWへの友情が冷めていくのがわかった。「運転中だからまた」と言って電話を切った。コンビニに車を停め、彼の連絡先を削除した。
その電話がWとの最後の会話になった。その後Wから実家経由で連絡が来たこともあったが、返事はしなかった。いまこの記事を書いていてる最中に彼の下の名前を思い出そうとしたが、すぐに思い出せなかった。自分でも少し驚いた。9年というのは元親友の名前を忘れるのに十分な時間であるらしい。
ある日村上春樹の『ノルウェイの森』を読んでいる時に似たシーンを見つけた。以前から何度も読んでいたのにK先輩、元親友Wのことがあってから妙にそのシーンが自分と重なった。
簡単に説明する。主人公の先輩(永沢さん)はハツミという同級生と付き合っていた。彼はハツミと付き合っている間、彼女のことを理解しようと努めなかったし、彼女が辛い状態にある時も寄り添おうとしなかった。主人公は永沢さん以上にハツミのことを慕っていた。その後、二人は別れ、ハツミは自殺する。
彼女は永沢さんがドイツに行ってしまった二年後に他の男と結婚し、その二年後に剃刀で手首を切った。彼女の死を僕に知らせてくれたのはもちろん永沢さんだった。彼はボンから僕に手紙を書いてきた。「ハツミの死によって何かが消えてしまったし、それはたまらなく悲しく辛いことだ。この僕にとってさえも」僕はその手紙を破り捨て、もう二度と彼には手紙を書かなかった。
ひとが辛い時に何もせず、最後に綺麗事だけ残す。こういう人間はいる。この後に何人も見てきた。彼らは、余韻に浸る自分の姿を誰かに見せることが何かの慰みになるように思っているのだろう。
死んだ人と、生きているが会わなくなった人の違い
以上が9年前に起きたことです。あの夜、先輩と親友を同時になくした。しかし、時間が経って気づいたのだが、K先輩は肉体が滅びたが僕の記憶の中に生き続けている。一方、Wはおそらく今も存命中だと思うが、僕の中では死んでいる。
「人」を構成するものは、他者の記憶の集積なのかもしれない。多くの場合、最後の記憶(別れ、死に際)に紐づく。死んだ人は歳をとらない。最期の姿で記憶に残る。もしかすると、先輩が末期癌にならず、今生きていたとしてもいつか疎遠になってそのまま忘れていたかもしれない。
逆も然りで、元親友Wにも当てはまるだろう。もしこの先輩のことが起こる前にWと死別していたら僕は彼のことを「青春時代の大切な親友」として記憶に留めただろうし、今のように思い出して多少の胃のムカつきを覚えることもなかっただろう。
10年前お世話になった先輩が亡くなり、その際の親友(僕以上に先輩に世話になった)の振る舞いに憤り、縁を切ったことがある。彼は僕の意図を知らず数年に渡り連絡してきたが完全に無視した。
人生において、死んだ人、生きているが会わなくなった人は同じかも。という内容の文章をいま書いている。— ノブトウ|教育Web×塾経営 (@nobutou) January 26, 2022
とはいえ、それは仮定の話ではある。。
僕は先輩の人生の最期に一緒に過ごすことができた、その事実が大切なのだ。彼の死によって自分が少し強くなれた気がする。僕もいつ死ぬかわからないけれど、たまに誰かに思い出してもらえるような人生を送れたらいいなと思う。
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