子供がいたら責任感が出るというのはぬるい話であって

日常のこと

今回はひさびさにオピニオン記事を書きます。

先日、次女が生まれました。今回はコロナの影響で病院には家族もはいれない状況。立ち会い出産はできず、妻からのLINEで陣痛⇒出産の様子を聞きました。前回は陣痛から出産まで12時間以上かかったのに今回はスムーズに生まれました。

子供を持つと責任感が上がる?

「子供が増えたらもっと稼がないとね」、「親の責任が大きくなるね」とお声をいただきます。たしかにその通りだと思う。

一方で、「子供を安心して産み育てられる社会を」という言葉を聞くこともあり、子供が増えることってそんな簡単なことではないんだなと思ったりもする。

「子供がいると責任感が強くなる」という意見があって、初めて子供が生まれてすぐくらいは《たしかに、以前よりも責任感が強くなった》と思うこともあった。
しかし、一年経って、いやいや話は簡単ではないという風に心変わりした。むしろ、その意見は非常に一面的な物の考え方ではないかとまで思うようになった。

というのも、人間は社会に対して誰しも責任を負って然るべきだからだ。それは子供の有無・子供の数で大きく変わるものではないと考える。

子供がいる人の方が責任がないのではないか?

そういう意味では、子供がいる人の方がラクではある。自子を以て『自分の生きた証』なるものを規定することができるのだから。

つまり、「自分の責任範囲=自分の子供の行先」のみで済ませられる、そこだけちゃんと抑えていれば誰も文句も言わない。

彼らの言う責任なるものも、ぶっちゃけ子供が犯罪者になったり自殺しなければOK程度くらいのものでしょ?

逆に子供のいない人は、自分でそこ(社会的責任なるもの)を決めていかないといけないので、自由であるようですごく大変。

人ひとりの人生において、生きる上での『責任』の範囲は人それぞれだ。

というわけで、えらそうにいうと、自分の家族・子供だけ良ければよいというのは一種の逃げだと考えている。

子供は勝手に大きくなるなんてものではない

何となくでも人間は育つものだと思うし、お金持ちにならなくても先進国生まれなら餓死することなんてないでしょう。

なので、親は子供の行末を案じるからといって、別にそこまで面倒かけられるものでもあるまい。

でも、例外もある。例えば子供に知的障害があった場合を考えてみよう。

仕事につけない、職場でのいじめに遭う率も高い。さらに、親がお金をたくさん遺しておいても、騙されたり、お金の使い方がわからないまま消えていくこともありうる。

当然親の方が早く死ぬので、自分が死んだ後のことを考えて策を講じなければならない。

 

  1. 兄弟をつくる。
  2. 自分の死後も安心して子供を面倒見てくれる施設を探す、あるいは作る

 

実際に、僕の姉はダウン症で知的障害があり、幼少から入院を繰り返して養護学校(現・特別支援学校)に通っていた。

姉はこれまでもこの先も一人で社会をサバイバルするのは難しい。

僕の母は、福祉施設を作るという方法を選んだ。何十年もかけて準備をした。すごいなと思うが、これはなかなか真似できるものではない。本当は社会全体で誰もが平等に最低限の暮らしをできるようにしなくてならない。ここは個人の努力ではどうにもならない点だ。

昔は、子供のうち一人、二人は死ぬかもということを考えて、多めに子供を生んでいたという。死ぬのが前提に後継ぎを多めにって発想は現代では受け入れ難いですから。

責任の取り方はそれぞれ

社会に対して自分は何ができるか?

その一つが子供を作ることであることは変わりないけど、個々人の問題を社会的な責務として捉える風潮には断固反対したい。

それぞれが考える社会的責任は常識とか同調圧力で決めてはいけない。そんな時代はもう終わっていると信じたい。

僕はいま2人子供ができて、子供を真っ当に育てることを自分の責任の範囲でやりたいと思っているけれど、そこだけに拘泥してはいけないのではないかと思う。

僕がいま考えている社会的責任というのは、自分の意思で物事を決める人たちを増やすことです。身近な人、聞き知った社会の圧力から解放される人を1人でも増やすことです。僕のブログを見て、ちょっと今いる場所から一歩踏み出そうとかんがえる人が出たら嬉しいです。

それではまた。

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