こうして僕はイスラエルで不法滞在者となり、日本に見捨てられた

旅・移住のこと

突然ですが、ここで質問です。

あなたの友達や知り合いで、不法滞在を経験した人はいますか?

僕が知りかぎり、僕の周りでは僕だけです。

イスラエルに住んでいたある日、突然僕は不法滞在者となりました。非常にタフな経験になりました。

今回はそのときの経緯をお話します。

当時のノブトウの生活

https://ja.wikipedia.org/wiki/イスラエル

まずは当時の生活について。

2011年秋にイスラエルに行った。ベエル・シェバ近郊のキブツ(共同体)で4ヶ月ほど暮らす。

このときはブタの屠殺場に勤務。工員として毎日毎日ブタを屠っていた。

次に、2012年2月に「ウルパン」という国営のヘブライ語学校に入学し、大工や塗装工で日銭を稼ぎながらヘブライ語を学んだ

5月にイスラエル軍で兵役に従事。そこから学校に戻って数週間が経ったころに事件は起こる。

ウルパン(国営ヘブライ語学校)について

(イスラエルに点在するウルパン)

ウルパンについて簡単に説明します。

イスラエルは複雑な歴史を持った国です。

世界で迫害をされていたユダヤ人が安心して住むために、1948年に中東の地に建国されました。

 

ユダヤ民族は2000年以上の歴史を持ち、世界中に散らばっているのでユダヤ人の子供(厳密には母親がユダヤ人の子)には、イスラエル国籍が付与され、いつでもイスラエルに住むことができます。これを帰還といいます。

 

とはいえ、みんなそれぞれ生まれた国で育っているため、大人になってイスラエルに戻ろうとしても、ヘブライ語は話せません。

 

そこでイスラエルは、ウルパンという国営の語学学校を用意して、まずはヘブライ語を学ばせイスラエル人の友人を作ったり、イスラエルのコミュニティに所属させようとします。

これがウルパンの設立経緯です。

経緯は長くなるので省略するが、僕はその学校への入学を許されて、ユダヤ人の友人たちとともにヘブライ語を学んでいた。

もちろん、ウルパンにいた日本人は僕だけだった。

そのパスポートには何も書かれていなかった


学生のビザは学校が一括して更新を行うことになっている。

学校の担当者が「君のビザも一緒に更新しよう」と言うので、僕はその人にパスポートを預けていた。

この担当者の名前はゴネンという。大男の頭はつるっ禿げ、インテリがかけそうな細いフレームのメガネをかけている。アメリカ英語に堪能で、皮肉好き。アジア人をバカにしていることが多々ある。イスラエル人に限らず欧米にはよくいるタイプだ。

*国外から来たユダヤ人は3年の徴兵制度を終えると、正式にイスラエル国籍を付与されることになる。当時の仲間はみんなイスラエルに来たばかりのユダヤ人で、彼らはしばらくの間は出身国のビザの更新をしなければならない。

数日後の授業中に全員にパスポートが返却された。

ゴネンは一人一人「コングラチュレイション!」(おめでとう)と握手をしながら、パスポートを手渡した。

それから10日が経ったころ、自室でパスポートを何気なく開いてみると、ヘブライ語の紙が挟んであるのを見つけた。

辞書で調べると、「過去の労働状況にヒアリングの必要があり、再提出してください」と書いてある。あるはずのビザの更新日時は書いていない

そのときにはすでにビザは失効していた。

内務省オフィスに出向く


次の日学校と仕事を休んで、ハイファ市街地にある内務省のオフィスを訪れた。

たらい回しに遭った挙句、最後に言われた言葉は「すでにビザが過ぎた状態なので、更新には特別な許可が必要です。事業者(学校)を通じて、再度お問い合わせください」というものだった。

すぐに学校に戻り、主任のもとに行き事情を話すも、「あなたは日本人だからみんなとは手続きが違ったようね。どうすればいいのかわからないわ。ごめんなさい」という返答。

そもそもゴネンが僕にパスポートを返すときに、更新ができなかった旨を伝えてくれればよかったのだ。

後の祭りです。

もう一度内務省に行って交渉してみたが、なしのつぶて。対応したおばさんは最後にこう言った。

このままビザが更新できなければすぐにでも本国に強制送還されます。我々は権限を持っていないので逮捕はしませんが、あなたは不安定な状況にある」と。

こうして僕のオーバーステイ(不法滞在)は確定した

さらに、不運は続きます。

日本に捨てられたと悟った瞬間


ビザが切れてからイスラエルを出国するまでの3週間、僕はひっそりと生活をした。

必要なとき以外は外に出ず、買い物するときはまとめておこなう。

友人と飲みに出るのも控えて、おとなしく部屋にこもって日記を書いたり、出国に向けて情報収集に努めた。

友人のエステルに相談すると、「日本大使館に行ってみたらどうかしら?」と言う。

そうだ!聞いてみよう。なんとかしてくれるかもしれない。

日本大使館に助けを求める

日本大使館はテルアビブ(実質の首都)にあり、ハイファから1時間ほどの距離にある。

イスラエルは治安があまりよくなく、そこら中に警察や兵士が見回りをしている。

それまでも職務質問にも何度かあったことがあり、その時の状況なら街中で買い物していて、そのまま逮捕されて日本に強制送還されることも起こり得た。

まずは電話してみよう。日本大使館に電話をかけてみた。

日本人の女性の職員につないでもらい、事情を話したところ、思わぬ反応。

「あー、もう期限来ているならどうしようもないですね」と、笑いながら彼女は言った。「なぜビザを更新しなかったの?」

僕は一から説明したが、「あなたが悪いわね」の一点張り。その通りです、と僕は何度も答えたが、結局僕への批判に戻る。

あまりに横柄すぎる口調にこちらが閉口しても、彼女は手を緩めることなくまくし立ててくる。

つづけて彼女は言った。

「私たちにはどうしようもできませんね。そもそもなんでヘブライ語学校の担当の人〜〜」と同じ話が始まる。そして鼻で笑う。

僕が遮ったところ、彼女はムッとした感じで「我々はどうしようもないので自分でどうにかしてください」と電話を一方的に切られた。

なるほど。彼女のいう我々というのは、日本政府のことだ。

その回答は「自分でどうにかしろ」。

オーケー、わかっていたよ。自分の責任だ。どうにかするよ。

この一事は大したことのないように思える話かもしれない。ただ、当時の僕には、日本という国への信頼を失うには十分すぎる出来事だった。

言語が同じでも言葉が通じないことはある


話はそれるが、僕は意図的に日本人と話さないように1年近くを過ごしていた。

イスラエル国内を旅行するときも、日本人が泊まりそうな宿は避けていた。イスラエルの語学や文化だけ学ぶように努めた。

時間の経過とともに非日本人とのコミュニケーションは深く広くなっていった。

そんなわけで、同じ言語でも会話ができないというのは、言語の不自由さに日々さらされていた僕には意外な発見だった。

日本に送り返されてたまるか!

せっかくイスラエルで仕事に就くためにヘブライ語を覚えたのに、この期間を無駄にするわけにはいかない。

僕の闘志に火がつきました。日本政府は僕に最適の対応をしたことになります。もちろんこれは皮肉です。

政治家を巻き込む


職場のボスに事情を話し、仕事を続けることができないと伝えました。

ボスのダニーはオーストラリア人で非ユダヤ人。ユダヤ人の奥さんと結婚したことでイスラエルの永住権を持っています。

イスラエルのビザの厳しさ、外国人への不寛容さについて、親身になって話を聞いてくれました。

(ダニーは誰からも愛されていた)

ダニーは、僕が会った中でも一番クールな男です。建国記念日の地元の祭りで、ダニーと一緒に弾き語りを披露したことがあります。忘れられない思い出の一つです。


ダニーは「友人に政治家がいるから、君のビザを融通してくれないか聞いてみよう」と言ってくれました。

結局それは叶わなかったのですが、異国の地で一外国人の僕にしてくれた優しさは一生忘れることはないでしょう。

(つづく)

≫次の記事は、
イスラエル脱出ルートの模索:厳格な空路、不安定な陸路』です。

本記事は、『イスラエルーギリシャ逃避行』の第1章です。初めてこの記事に来た方は以下の記事を参照してください。

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